京都市右京区嵯峨野宮ノ元町、嵐電有栖川駅にほど近い三条通沿いの斎宮神社のある交差点を南へ下がった所にある浄土宗寺院。
山号は如意山、本尊は阿弥陀如来。
一帯は昭和初期までは「生田村」と呼ばれ、その後合併や編入により1874年(明治7年)に嵯峨野村、1889年(明治22年)に太秦村となり、1931年(昭和6年)に京都市右京区の一部となり現在に至っています。
詳しい創建の経緯は不明ですが、寺伝によれば伝誉上人による創建で、粟生光明寺や知恩院の僧侶の隠居寺であったとされ、本尊は阿弥陀如来の他にも彩色が美しい鎌倉期作の地蔵尊を所蔵しており、通常秘仏ですが2019年(令和元年)の浄土宗人大公開の際に特別公開されています。
また毎年1月13日の午の刻より行われる正月行事「御祷(おとう)」は世話役の当家(とうや)4名が、前年に預かった御神木を寺の地蔵菩薩ならびに神明の社(斎宮神社)に供えて参拝の後、夕刻に阿弥陀寺にて寺の住職とともに般若心経を唱えた後、大木に小枝を添えて「村中繁栄家内和合」を意味するという「栄和」「栄和」と叩いて地蔵尊をご開帳するというもので、江戸中期の1688年(貞享5年)より開催されている歴史を持つ日本で唯一残る村行事だといいます。
この他にも、現在は主に伝統芸能である「嵯峨野六斎念仏」の活動の本拠地としても知られています。
この点「六斎念仏」は太鼓や鉦を打ち「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えながら踊る民族芸能で、平安時代中期に空也上人が一般庶民に信仰を広めるために始めたと伝わる踊念仏に起源を持ち、月に6日ある忌み日「六斎日」に行われたことから「六斎念仏」と呼ばれるようになったそうです。
その後、室町中期頃からは能や狂言も採り入れられ大衆化され、現在は京都を中心に六斎日に関係なくお盆の前後や地蔵盆に行われています。
1977年(昭和52年)にはこの平安期から続く貴重な民俗芸能の保存・継承に努力していくために「京都六斎念仏保存団体連合会」が結成されるとともに、1983年(昭和58年)には「国の重要無形民俗文化財」にも指定されています。
「嵯峨野六斎念仏」は元々は生田村に伝承されてきた伝統芸能で、1755年(宝暦5年)の干菜寺の文書である「六斎支配村方控牒」に「生田村 講中」との記載が見られることから、江戸中期には既に活動していたと考えられています。
そして現在の京都の六斎念仏は大きく分けると、念仏を唱えながら鉦と太鼓を打つ干菜山光福寺を総本山とする干菜系の「念仏六斎」と、能や狂言などを採り入れた紫雲山極楽院空也堂を中心とする空也堂系の「芸能六斎」に分類されますが、当時は干菜系であったものの幕末から近代にかけて空也堂から発行された鑑札や免許状を有していることから、この頃から空也系に属する芸能六斎となっていたと考えられています。
明治末期から大正にかけて一時期中断していましたが、1920年(大正9年)に阿弥陀寺の表門と塀が寄贈された際、その竣工式で六斎念仏が演じられることとなり、地元の有力者であった北村覚次郎により衣装や太鼓などが寄贈され、この竣工式をきっかけに後世へと伝える動きが起こり、生田村の青年会が中心となって再興され現在に至っています。
現在は嵯峨野阿弥陀寺に「嵯峨野六斎念仏保存会」の本拠を置き、後継者を養成しつつ各所の行事やイベントなどにも出演して披露するなど、幅広い活動を行っています。
主な活動としては8月13日に檀家の家々を回り先祖供養を行う「棚経」のほか、8月23日に本拠である嵯峨野阿弥陀寺にて全18曲全てを演じる「一山打ち(いっさんうち)」を行う「地蔵盆奉納」、そして9月第1日曜日の松尾大社の「八朔祭」での奉納などがあります。