京都市中京区蛸薬師通堀川東入亀屋町、堀川高校や本能寺址にほど近い蛸薬師通沿いにある天台宗の寺院。
山号は紫雲山で、空也自作と伝わる空也上人像を本尊とすることから「空也堂」と通称されますが、正式名は「紫雲山光勝寺 極楽院(しうんざん こうしょうじ ごくらくいん)」といい、「光勝」とは空也が比叡山延暦寺にて天台座主・延昌の下で受戒した法名から付けられた名前です。
平安中期の939年(天慶2年)(938年(天慶元年)とも)、狩猟を好んだ平定盛(たいらのさだもり)が空也の可愛がっていた鹿を射殺してしまったため、空也は深く悲しみ、その毛皮で衣を作り角を杖の頭につけて念仏を唱えたといいます。
そのことを耳にした定盛は自らの行い悔いて剃髪出家し一宇を創建、空也を開山とし、自らは第2世となったのがはじまりと伝わっています。
元々は三条櫛笥(現在の三条大宮の西)の地にあったことから「櫛笥道場」とも「市中道場」とも呼ばれていたといい、その後室町時代に「応仁の乱」で焼失の後、江戸初期の寛永年間(1624-45)に現在地に再建され、西岸庵・寿松庵・利情庵・南坊・正徳庵・東坊・金光庵・徳勝庵の8寺の塔頭を有するなど大いに栄えますが、その後も幾度もの火災に遭い、明治の初めには全ての塔頭が廃絶したといいます。
現在の建物は江戸末期の1866年(慶応2年)、「蛤御門の変」で被災した後に再建されたもので、本堂には空也の像を安置しています。
この点、空也(くうや 903-72)は醍醐天皇の第二皇子で、出家した後は鐘を叩き念仏を唱えて諸国を修行・行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力するなど、浄土教の先駆者として知られています。
その一方でその傍ら橋を架け、道路を整備し、井戸を掘ったほか、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなどなどの社会事業を行ったことでも知られ、特定の宗派に属さない超宗教的立場にて常に市民の中にあって町中で伝道に励んだことから「市の聖」「市聖(いちひじり)」「阿弥陀聖」と呼ばれて人々から親しまれ、高野聖などの中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆けとなったほか、鎌倉時代の時宗の祖として知られる一遍にも大きな影響を与えた人物です。
毎年11月の第2日曜日にはその空也上人を偲んで「開山忌(空也忌)」の法要が営まれ、王服茶(おうぶくちゃ)の「献茶式」の後、空也僧による「歓喜踊躍念仏(かんぎゆやくねんぶつ)(空也踊)」と重要無形民俗文化財の「六斎念仏焼香式」が奉修されますが、京都の伝統芸能の一つとして知られる「六斎念仏踊(ろくさいねんぶつおどり)」はこれに源を発するものであるといいます。
この点「六斎念仏」は太鼓や鉦を打ち「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えながら踊る民族芸能で、平安時代中期に空也上人が一般庶民に信仰を広めるために始めたと伝わる踊念仏に起源を持ち、月に6日ある忌み日「六斎日」に行われたことから「六斎念仏」と呼ばれるようになったそうです。
その後、室町中期頃からは能や狂言も採り入れられ大衆化され、現在は京都を中心に六斎日に関係なくお盆の前後や地蔵盆に行われています。
1977年(昭和52年)にはこの平安期から続く貴重な民俗芸能の保存・継承に努力していくために「京都六斎念仏保存団体連合会」が結成されるとともに、1983年(昭和58年)には「国の重要無形民俗文化財」にも指定されています。
空也堂の空也踊躍念仏踊りが「六斎念仏踊」の起源であるという伝承のほか、江戸後期から明治・大正時代に空也堂が六斎講中に六斎念仏鑑札や菊御紋入りの金銀太鼓などを付与したという経緯から、空也忌では芸能六斎系の保存会によって六斎念仏が奉納されるようになり、現在は千本六斎会が奉納を行っています。