京都市上京区の「西陣」と呼ばれている地域の、大宮中立売から今出川大宮までのを南北に走る大宮通を中心とした一帯。
そもそも「西陣(にしじん)」とは京都市の上京区から北区にわたる地域の名称で、1467年(応仁元年)5月に「応仁の乱」が勃発した際、山名宗全の邸宅(現山名町付近)を拠点とする勢力と細川勝元の邸宅(現在の小川通上立売、小川児童公園北付近)を拠点とする勢力が、寺之内通小川に掛かる百々橋を境にして激しい戦闘を繰り広げましたが、この時の山名邸の一帯が東方の細川方に対して西側の陣という意味で「西陣」と呼ばれたことがきっかけとなり、室町時代の終わり頃「西陣」が地名として使われるようになり、以後定着しました。
「西陣」の地名の初見史料は「蔭涼軒日録」の文明19年(1487年)正月24日条に常在光寺の荒廃に触れて「西陣辺」と記されているもので、乱の10年後には既に地名として使われていたことが窺えます。
以降100年に及ぶ戦国時代がはじまり、京都の町は10年続いたこの戦乱で焦土と化し、その復興に20年もの年月を要したといわれていますが、この復興の際に各地に疎開していた織物職人たちが京都に戻り、「西陣」と呼ばれるようになったこの地で織物の生産を再開。更に豊臣秀吉は京都の復興にあたり堺にて中国の新しい織物技術を学んだ職人たちを西陣の地に集め、この頃から機業地として知られるようになったといいます。
元々京都の機業は平安時代の織部司(おりべのつかさ)以来の伝統を引き高い技術を有していましたが、江戸時代には明の技術を学ぶことで技術力を高め、更に幕府の庇護を受けるなどし諸大名や豊かな町人層を顧客に需要の高まっていた高級紋織物を次々と生産するようになり、織物の名も「西陣織」と呼ばれて一躍一大産地へと成長します。
そして元禄時代には機屋の軒数5000軒を数えたと伝えられるなど、元禄から享保にかけて黄金時代を築きましたが、江戸後期に入ると、1730年(享保15年)の「西陣焼け」や1788年(天明8年)の「天明の大火」などの相次ぐ災害や凶作や不況などもあって高級呉服の需要が低迷したほか、丹後や長浜、桐生などの新興産地の台頭、また明治維新に伴う天皇の東京行幸や服装の洋風化などもあり、栄華を誇った西陣の織物業界は一時低迷期に入ります。
しかし明治に入るとフランスからジャカールによって発明されたジャカード織機を導入して近代化に成功し、また技術革新を進めて洋風意匠新織物や合成染料など新しい織物の開拓にも意欲的に取り組み、更に万博などへの出品を通じて西陣機業の優秀さを内外に示すなどして活気を取り戻し、伝統産業として新たに復活しました。
戦後は着物離れなどにより需要の低迷は続いているものの、現在も日本第一の高級絹織物の産地として全国に名を知られる存在です。
ちなみに「西陣」の範囲については、近世の「京都御役所向大概覚書」によれば「東ハ堀川を限り、西ハ北野七本松を限り、北ハ大徳寺今宮旅所限り、南ハ一条限り、又ハ中立売通」であったとされています。
現在も「西陣」という行政区域はなくどこからどこまでを指すか正確に定められている訳ではありませんが、京都市による西陣学区の案内ではこれよりもやや広く、歴史的には南北は「中立売通」から「鞍馬口通」まで、東西は「室町通」から「千本通」までの1辺が約1kmのほぼ正方形の範囲とされています。
明治後期には生糸問屋街のみならず有力金融機関が数多く出店して銀行街を形成し、また千本通の中立売~今出川間にかけては「西陣京極(にしじんきょうごく)」と呼ばれ、1900年前後から1950年代にかけて寄席や芝居小屋、映画館が多数立ち並び、西陣織の労働者たちを相手に娯楽を提供した興行街が形成されてきましたが、現在は映画館・芝居小屋などはほぼ姿を消し庶民的な繁華街となっています。
また堀川今出川周辺には西陣織の実演や、着物ショー、西陣織の製品の展示・即売などを行い西陣織の魅力を発信する西陣織会館や、旧西陣織物館の建物で市の登録文化財に指定されている京都市考古資料館などがあり、更に堀川より東側は豊臣秀吉による京都の都市改造計画によって寺之内通周辺に寺院が集められ、現在も本法寺などの寺院が数多く残り寺町が形成され、小川通沿いの茶道三千家の表千家の不審菴や裏千家の今日庵などの建物とも相まって、歴史的な町並み景観が維持されています。
西陣は手機を中心とする中小の機織工場が密集しており、時代ととにビル化や現代風の建築に建て替えが進む一方で伝統的な家屋で生業を営むこだわりを持つ企業も多く、町家を中心とした京都らしい町並みの景観が今も数多く残されています。
その代表格ともいえるのが江戸時代より西陣織の中心であり拠点であった今出川大宮の界隈で、江戸時代より西陣問屋街として栄え、往時には立ち並ぶ生糸問屋、織物問屋によって1日に1000両に値する生糸・織物の商いが行われ千両箱が行き交ったことから「千両ヶ辻」と称されました。
とりわけ「糸屋町八丁」と呼ばれた今出川大宮を下がった大宮通沿いと、北西の五辻通沿いの樋之口町・芝大宮町・観世町・五辻町・桜井町・元北小路町・薬師町・北之御門町(幕末近代以降は樋之口町がなくなり横大宮町・石薬師町・元妙蓮寺町が加わる)には江戸初期より幕府の糸割符制度の政策によって特権を得た糸割符商人が数多く軒を並べて糸屋町として活況を呈していたといいます。
現在の今出川通大宮、いわゆる千両ヶ辻を中心に北は寺之内通から南は笹屋町通まで、東は猪熊通から西は浄福寺通までの約37haの地域には、今でも西陣織および関連業が密度高く立地し当該地区の景観を代表する町並みが数多く残されていることから、2001年(平成13年)8月27日に京都市より「千両ヶ辻界わい景観整備地区」として重要界わい景観整備地域に指定されており、またそれらを構成する建造物の中には文化庁指定の登録有形文化財や京都市指定文化財の町家建造物も多くあるといいます。
また同地は豊臣秀吉が建造した「聚楽第」の城郭の北側に位置しており、千両ヶ辻の南玄関口に当る大宮通中立売北西角には「聚楽第本丸東濠を表示する石碑も建てられています。
近年「千両ヶ辻」一帯では活気に満ちあふれた当時の雰囲気を再現すべく、毎年9月の秋分の日に開催される地元の氏神・晴明神社の大祭「晴明祭」に合わせて「西陣・千両ヶ辻伝統文化祭」を開催しており、歴史的価値の高い町家とその坪庭の特別公開や和装品の販売のほか、イベントの開催や町家レストラン・食事処・茶処が設けられるなどし、多くの来場者で賑わっています。
また3月上旬のひな祭りには京町家に伝わる歴史あるひな人形やひな飾りなどを公開する「千両ヶ辻ひな祭り・桃の節句の彩り」も開催されています。