京都市上京区荒神口通寺町東入る荒神町、京都御所の南東、府立鴨沂高校の東側、そして「京の七口」の一つである「荒神口」のすぐ西に位置する天台宗寺院。
正式には「常施無畏寺(じょうせむいじ)」ですが、「清荒神(きよこうじん)」あるいは「こうじんさん」の通称で知られており、「荒神口」や「荒神町」という地名はこのお寺に由来しています。
寺伝によれば、奈良時代の771年(宝亀2年)に光仁天皇の子・開成親王が、仏門に帰依して摂津国勝尾山(現在の大阪府箕面市)で修業した際に、荒神尊の尊影を感得し自らその姿を模刻。
これを父の光仁天皇が日本最初の荒神尊「三宝荒神尊」として、摂津勝尾山の地に堂宇を建てて祀ったのがはじまりとされています。
その後、勝尾山が都から遠く勅旨の代参が困難なことから、南北朝時代の1390年(明徳元年)に後小松天皇の勅命により、僧・乗厳(じょうげん)が、洛中の醒ケ井高辻(現在の下京区の堀川高辻付近)の地に勧請、以来「清荒神」と呼ばれるようになりました。
乗厳はこの後、南北朝動乱の終結祈願を命じられ、護浄院にて祈願。
この時に如来荒神の尊影を感得し、これが南北合一の瑞相であるとして如来荒神像を白檀木に刻んで本尊の脇座に安置したといいますが、これが現在祀られている如来荒神像とのことです。
そして乗厳の奏上したとおりに、1392年(明徳3年)に南北朝合一が達成されたことから、当寺に対する歴代の天皇の崇拝は益々篤くなり、以来国家安寧・五穀豊穣の御札が献上されたといいます。
1600年(慶長5年)に後陽成天皇の勅命により皇居守護のために現在地に移転すると、後陽成天皇自作の如来荒神尊七体が下賜されて合わせて祀られるようになり、更に1697年(元禄10年)には「護浄院」の院号を賜り現在に至っています。
明治時代には明治天皇も篤く崇拝し、1872年(明治5年)まで勅使参向、月並御代拝は明治末期まで続けられたといいます。
本尊である「清三宝大荒神(きよしさんぽうだいこうじん)」は火の守り神であり、人々からは「こうじんさん」と呼ばれて「火の用心」「災難除け」の本尊として信仰を集めているほか、一般の家庭では台所の「かまどの神様」としてかまどの上に清荒神の護符が貼られ火の守護神とされています。
また台所を任されるのが主に女性であることから、女性の安産にも御利益があるともされています。
ちなみに荒神尊は「三宝」、すなわち「仏法僧」を守護するものですが、仏の教えを守りながら不浄や災難を除去する神様で、神仏習合の典型的な例といえます。
そして「清」は、もともと大阪府箕面市の「清」にあったものを奈良時代に京都に勧請したところに由来しているといわれています。
また本尊に準じて「観音堂」に祀られている准胝観音菩薩(じゅんていかんのんぼさつ)は、「洛陽三十三所観音霊場」の第3番札所になっており、あらゆる「仏の母」といわれているところから「仏母准胝尊」ともいわれ、清浄と母性の象徴であり、多くの仏を生み出す母としてあらゆる人々の悩みに応えて救って下さるほか、女性を守護する女性の守り本尊、子授けの観音様としても知られています。
更に「七福神」とも縁が深く、「尊天堂」内に安置される「福徳恵美寿神」は元々は禁裏に奉安されていたものが明治維新後の天皇の東京行幸の際に堂上家から護浄院の七福殿に移されたもので、「京都七福神」の恵比寿神に数えられています。
恵美寿神は七福神で唯一日本生まれの神様で、庶民救済の神であると同時に商売繁盛・旅行安全・豊漁等の守護神として厚く崇拝されている神様です。
同じく「福禄寿尊」は「京の七福神」の一つに数えられていますが、福禄寿は南極星の精・泰山府君を人格化した中国の神様で、幸福と封禄(富貴)と長寿の三徳を司り、商売繁盛・延寿・健康・除災の守護神として厚く崇拝されている神様です。
かつての神仏習合の時代を感じさせる境内には鳥居があるほか、1788年(天明8年)の「天明の大火」によって焼失し後に再建された本堂も神社風の建物となっています。
た三宝荒神堂前には「無垢の井」という井戸があり、井戸より湧く湧水は「無垢の水」と呼ばれて親しまれています。