京都市下京区綾小路通新町西入ル矢田町、京都市街の中心部に位置する四条烏丸のやや南西の綾小路通沿いにある元々は江戸時代に呉服商を営んだ「奈良屋」の店舗として使用されていた京町家。
「奈良屋」は1743年(寛保3年)8月5日、呉服商の奈良屋勘兵衛方で奉公をした後、別家独立を許された初代・新右衛門が、烏丸四条下ルに店を構え創業したのがはじまり。
杉本家の初代・新右衛門新八は、江戸中期の1704年(宝永元年)に伊勢国飯南郡(三重県松阪市)の農民・杉本八郎兵衛の六男として生まれ、14歳で上洛し、京都四条の呉服商・奈良屋勘兵衛の下で奉公を開始し、21歳で仕入れ方を担当、埼玉県騎西の出店に赴いて商売に精進して40歳で独立を果たしました。
独立してからも、現在地に本店を構えて京呉服を仕入れ、関東地方に支店を設けて販売するいわゆる「他国店持京商人(たこくたなもちきょうあきんど)」として栄え、2代・新右衛門が下総国の佐倉(千葉県佐倉市)に江戸店として初めて出店すると、3代・新左衛門秀明の時代には関東での販路を安定させ、その後の繁栄の基盤が作られました。
綾小路新町西入の現在地に移転したのは1767年(明和4年)のことで、以来京都三大祭にも数えられる「祇園祭」の山鉾の一つである「伯牙山(はくがやま)」のお飾り場(会所)として使われるようになったということです。
現在の建物は「主屋」は幕末の1864年(元治元年)に起きた「蛤御門の変」に伴う「元治の大火」、いわゆる「どんどん焼け」の後、1870年(明治3年)に6代目当主によって再建されたもので、棟梁もはっきりしているといいます。
また主屋の北寄りに鍵型に並ぶ「大蔵」「隅蔵」「中蔵」の土蔵3棟については、建築年代が不明なものの「元治の大火」の際にも焼けずに残ったと伝わります。
敷地は間口約30m、奥行き約50mで、面積は360坪(約1200平方メートル)、家屋の延べ面積は130坪(約435平方メートル)と、現存するものとしては京都市内でも最大規模の町家でありながら、保存状態も非常に良好で高い歴史的価値を有しており、江戸時代の京都の伝統的な町家の形式を今に伝える旧家として1990年(平成2年)2月に京都市の有形文化財に指定。その後2010年(平成22年)4月には国の重要文化財にも指定されています。
「主屋」は1階部分には京格子を建て、出格子、大戸、犬矢来(いぬやらい)、厨子2階に開けた土塗りの虫籠窓(むしこまど)という典型的な昔ながらの京町家の外観で、内部は「鰻の寝床」と呼ばれるように奥へ奥へと延び、表通りに面する店舗部と裏手の居室部とは玄関で結ばれる「表屋造(おもてやづくり)」の形式で構成されていて、各1間半の床と棚を持つ座敷や、独立棟として西に張り出した仏間に加え、12畳はあるであろう広い台所などに特色を有しており、一般的な町家よりもかなり大きな間取りは、奈良屋が大店であったことを窺わせます。
主屋の後方には江戸期の「大蔵」「隅蔵」「中蔵」といった土蔵3棟が並び建ち、これに加えて明治期から昭和初期にかけて整えられた茶室なども保存されており、京都の中心部にありながら、江戸以来の大店の構えをよく伝え、大規模町家の構成の典型を示している京町家といえます。
また建物の他にも敷地内には庭園もあり、露地庭、座敷庭、坪庭などにも趣向が凝らされていて、要素・空間構成などが評価され2011年(平成23年)に京町家の庭園として初めて国の名勝指定を受けています。
京都市指定文化財に指定されて後、この貴重な町家住宅を維持するために1992年(平成4年)には「財団法人奈良屋記念杉本家保存会」が設立され、現在は同保存会が管理・運営にあたっていて、代表的な京の町家として京都の町家をテーマにした雑誌やテレビ番組でもしばしば採り上げられるほか、保存会の事務局長を務める第10代・杉本節子は料理研究家やエッセイストとして女性誌などにも登場するなど活躍の場を広げています。
通常は非公開ですが、現在は1790年(寛政2年)より書き始められたという年中行事のならわしや人生儀礼のしきたりを記した「歳中覚(さいちゅうおぼえ)」という古文書にも記述のある年中行事の公開のほか、3月の「ひな飾り展」や5月の「端午の節句展」、そして7月の祇園祭での「祇園会 屏風飾り展」の年3回の企画展における特別公開、更にその他にも様々な催しを随時開催しており、年中行事については奈良屋記念杉本家保存会の会員になれば参加することもできるといいます。
そしてこれらの中でも毎年7月14日から16日にかけての「祇園祭」においては、宵山の期間に舁山(かきやま)の一つ「伯牙山(はくがやま)」の会所となり、お飾り場として通りに面した店の間にご神体や懸装品が飾られるほか、貴重な屏風や道具など約30点が展示される「屏風祭」も行われ、一般にも公開されて見学することができます。