京都市下京区綾小路通室町西入善長寺町、四条烏丸の北西の綾小路通沿いに北面して鎮座する神社で、京都三大祭の一つである「祇園祭」の山鉾町の一つである綾傘鉾の保存会会所があることで知られている神社です。
祭神の「伊弉冊大神(いざなみおおかみ)」は伊弉諾大神(いざなぎおおかみ)の妃神で天照大神の母神にあたり、日本国の国土を初めて造り、また万物の祖神を生んだとされる国生みと神生みの神様です。
一方、相殿の「八品大神」は大国様、大黒さんとも称される大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)の別名と言い伝えてられていて、日本の国土を造って経営し、皇室の祖先に国を譲ったとされる国土経営に功績のある神様で、恵比寿神とも同一視され大国主命の子として共に日本の国造りを行い、国譲りに際して父に国土の献上を勧めた功績のある「事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)」と合わせた3柱の神々は、人々より出世・縁結び・商売繁昌の神様として信仰を集めているといいます。
創建の詳しい経緯は不明も、丹波国(現在の京都府福知山市三和町)の大原神社から分祀・勧請し、下京区善長寺町周辺の守り神として信仰されていたといいます。
昔の文献によれば三和町の大原神社の出張所として江戸時代までは三和町の大原神社の御札が当社で販売され、その売り上げを三和町の大原神社に上納していたそうですが、江戸中期頃に、三和町の大原神社への上納金のトラブルが生じ、両者の関係は2001年(平成13年)に関係者の尽力によって交流が再開されるまで約250年もの間疎遠であったといいます。
また神社のある善長寺町にはかつて町名の由来となった「善長寺」という寺院がありました。
永正年間(1504-21)の初めに忍想によって綾小路室町善長寺町に創建された後、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の京都改造計画に伴う寺町の形成の一環で現在の新京極に移転され、徳川家康が上洛する際には定宿としたと伝えられています。
地蔵堂に祀られている秘仏地蔵菩薩は鎮護国家、無病息災、延命の守護仏として深く信仰され、瘡神といわれる大原大明神の直作であるところから「瘡神(くさがみ)さん」と呼ばれ、「四国八十八箇所」の第19番札所である徳島県の立江寺の本尊「立江地蔵菩薩像」と同等の御利益が得られるとして信仰を集めている寺院です。
この善長寺の山号が「大原山」とされることからも、現在の善長寺町にある大原神社とは何かしらの関係があると考えられ、善長寺の創建時にその鎮守社として、福知山市三和町の大原神社から勧請され、後に善長寺が秀吉の区画整理で新京極に移転した後も、大原神社はそのまま残されたともいわれています。
また2002年(平成14年)には境内に「祇園祭」の山鉾の一つである「綾傘鉾(あやかさほこ)」の会所が新たに完成し、その活動拠点となっていることでも知られています。
「綾傘鉾」は応仁の乱以前の15世紀前半の記録にも登場する歴史を有する鉾で、風流(ふりゅう)と呼ばれる古い山鉾の形態を現在に残している「傘鉾」の一種で、「山鉾巡行」では2基の大きな傘鉾に加え、赤熊(しゃぐま)と呼ばれる鬼の姿をした「棒振り囃子」の踊り手と囃子方、更に6名の稚児などによって行列が構成され、徒歩で町中を進みつつ、途中で鉦・太鼓・笛に合わせて棒振り囃子を何度も披露します。
一時は小型の御所車に傘を差した「曳き鉾」の形に改造されましたが、1864年(元治元年)の「蛤御門の変」による大火で大部分を焼失し、明治期に一時復活したものの再び中断され、それから約100年が経った1979年(昭和54年)に復興を果たし、巡行を再開しました。
祭の期間中は境内の飾り付けが行われ、江戸末期に焼失した「曳き鉾綾傘鉾」の模型や「巡行」で使う御面など、貴重な品の数々が展示され、また「棒振り囃子」は宵山の期間中にも会所近くで披露され、多くの見物客で賑わいます。
そして神社の方は明治時代までは神主がいましたが、現在は綾傘鉾保存会によって管理されているといいます。