京都市下京区高辻通室町西入繁昌町、周辺に繊維関係の商社などが立ち並ぶ街角の一角に鎮座する神社。
旧称は「班女神社(はんにょじんじゃ)」で、「繁昌の宮(はんじょうのみや)」「京の弁財天」「班女ノ社(はんにょのやしろ)」などとも呼ばれています。
同地には平安時代の第56代・清和天皇の貞観年間(858-76)に、藤原繁成という名の武将の邸宅があったといい、その後、醍醐天皇の延喜年間(901-22)に邸内の庭にあったという功徳池(くどくいけ)中央の中島に、安芸の宮島より市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神を勧請したのがはじまりと伝わっています。
この点、市杵島姫命は福岡県の宗像大社や広島県の厳島神社に祀られ海上交通の神として知られる宗像三女神の一柱で、仏教でいう古代インド伝来の弁財天と習合して多くの信仰を集める神様で、七福神の中で紅一点の女神としても有名です。
また文献による初出は鎌倉初期の13世紀前半に成立した「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」で、巻三「長門前司女、葬送の時本所にかえる事」という説話の中に、長門前司の娘の葬送をめぐる怪異譚として繁昌神社の前身社が登場します。
そしてそれによると繁昌神社の旧鎮座地とされているのは現在の鎮座地の西北、駐車場の奥にある大きな石の上に祀られている「班女塚(はんじょつか・はんにょつか)」という小祠のある場所だといいます。
昔、この地に住んでいた前長門国守に2人の娘のうち、妹の方は宮仕えの後、27~8歳の頃に未婚のまま病死し、棺に入れられて平安京の葬送地・鳥辺野へ運ばれますが、到着後に棺の中に遺体がなく、家に戻ってみると戸口に元のままの姿で伏せていたといいます。
その後も遺体を棺に入れて運ぼうとしますが、遂には木の根が生えたようにまったく動かなくなってしまい、そこでこの場所に塚を造って葬られることになったといいます。
それから遺体を埋めた場所に向かい合って住むのは気味が悪いと周辺住民も次々と引越してしまい、塚の周辺にはしばらくの間は誰も寄り付かなくなりましたが、その後、弁財天を祀る社が建設され、「班女社」「半女社」などと呼ばれるようになりました。
それから「応仁の乱」間もない室町時代の1477年(文明9年)に作成された「八坂神社文書」の一部に同社と思われる記載があり、また17世紀後半の地誌「雍州府志」には、豊臣秀吉が社殿を東山五条の佐女牛八番宮社(現在の若宮八幡宮社)近くに移そうとしたものの、祟りがあったとして再び現在地に戻されたことが記されているといいます。
また祭神としていた弁財天は仏教色が強かったといい、江戸時代には真言宗の寺院が管理する神仏混交の神宮寺で「功徳院」と呼ばれていたといいますが、幕末の1864年(元治元年)に「禁門の変(蛤御門の変)」が元で京都の町を焼け野原にしたどんどん焼けで同社の社殿も焼失したといいます。
そして明治初期の「神仏分離令」の際に市杵嶋姫命を祭神とする神社のみが残り、現在に至っています。
当初は「班女神社(はんにょじんじゃ)」と呼ばれていたといいますが、これが訛って江戸中期より「繁昌神社(はんじょうじんじゃ)」と呼ばれるようになったとも、また一説には弁財天が「針才女(はりさいじょ)」とも呼ばれていたことから、針才女の音が訛って繁昌神社となったともいわれていて、また現在は「下京区繁昌町」という形で地名としてもその名をとどめています。
「繁昌」という名前の神社は日本で唯一ともいわれ、名前の通り商売繁昌についてのご利益があるとされるほか、弁財天が祀られていることから家内安全、諸芸成就、良縁成就などのご利益もあるとされています。