京都市南区西九条比永城町、世界遺産・東寺の五重塔が見える九条大宮交差点から大宮通を南へ80mほど下がった東側にある真言宗単立寺院。
山号は萬祥山で、本尊は宝冠釈迦如来。
平安中期、西八条(現在の八条壬生付近)には第56代・清和天皇の孫で、「清和源氏」の始祖とされる源経基(みなもとのつねもと 917?-961)が生前に「八条亭」と呼ばれる邸宅を構えていました。
経基は第56代・清和天皇(せいわてんのう 850-81)の六男・貞純親王(さだすみしんのう 873?-916)を父に持つことから、六男の「六」と清和天皇の「孫」ということで「六孫王」と呼ばれたといい、15歳の時に元服して源の姓を賜わり、先例に従い臣籍に加えられたといい、「承平・天慶の乱」では東国・西国の追討使として現地に派遣され、凱旋の後に鎮守府将軍に任じられたことで知られる人物です。
961年(応和元年)、経基はその臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり、西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈る故にこの地に葬れ」と遺言したといい、それを受けて963年(応和3年)、経基の子・源満仲(みなもとのみつなか・みちなか 912-97)が、遺言に従って邸宅跡に霊廟を建て、墓前に社殿を造営したのが現在の「六孫王神社」だといわれています。
その後この地は「六ノ宮権現(ろくみやごんげん)」、あるいは今昔物語では「六の宮」などと呼ばれ、芥川龍之介の「六の宮の姫君」や与謝野蕪村らの作品に登場するとともに、小泉八雲の「怪談」でも「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が描かれていることで知られています。
そして260年余り経過した鎌倉時代の1222年(承応元年)、暗殺された夫を弔うために出家した鎌倉3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも 1192-1219)の妻・本覚尼(坊門信子・西八条禅尼)(ぼうもんのぶこ・にしはちじょうぜんに 1193-1274)は、真空回心を請じて六孫王神社の地に寺院を建立して「萬祥山遍照心院大通寺(へんしょうしんいん)」と名付け、六孫王神社をその鎮守とします。
「尼寺」の通称で親しまれ、実朝の母・北条政子(ほうじょうまさこ 1157-1225)も大いに援助したといい、その後中世三大紀行文の一つである「十六夜日記(いざよいにっき)」の著者として知られる阿仏尼(あぶつに 1209-83)も入寺し、亡夫・藤原為家(ふじわらのためいえ 1198-1275)を供養したといい、境内にはその墓とされる「阿仏塚」もあります。
足利尊氏・義満をはじめ源氏の流れを組む足利幕府によって手厚く保護され、その後「応仁の乱」の兵火に遭うも織田・豊臣氏の崇敬も篤く、徳川家代々も大いに興隆に尽くしたといい、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、広大な敷地と庭園のほか、7つの塔頭寺院を有し、東は大宮、西は朱雀、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内を有していたといいますが、明治維新後の「神仏分離令」に伴う廃仏毀釈に遭い、更に1911年(明治44年)には旧地が旧国鉄の用地となったため、六孫王神社を残して現在地に移転することとなり、社領を失うなどして衰退し、経基の墓所だけが残されたといいます。
寺宝としては、創建当時から伝わる「善女龍王画像」「醍醐雑事記」が重要文化財に指定。
また「実朝木座像」や「本覚寺置文2巻」「阿佛尼真蹟」「阿佛塚」など国文学の歴史上重要な人物を偲ぶことができるものも多く、更には足利尊氏や義満の文書も多数所蔵されているといいます。
そして多くの寺宝はこれまでも京都国立博物館や京都文化博物館、大阪市立美術館などで公開されていますが、寺での一般公開は行っていないといいます。
通常非公開の寺院で、予約すれば拝観ができる場合もあるとのことですが、現在誰でも自由に参拝ができるのは12月31日の「除夜の鐘」の時のみだといいます。
またその他にも毎年10月の体育の日に行われる六孫王神社の「宝永祭」の際には、神輿が氏子百数十名に担がれて当寺を訪問することとなっており、神輿に対し般若心経が奉納されます。