京都府南山城村南大河原、京都府唯一の村である南山城村の玄関口であるJR大河原駅の南を流れる木津川のほとり、木津川に架かる恋路橋を渡った南大河原集落に鎮座し、後醍醐天皇の側女であったといわれている恋志谷姫を戀志谷姫大明神として祀る「恋志谷神社」および菅原道真を祀る「天満宮社」を合祀する神社。
境内にある1917年(大正6年)に造立された「戀志谷神社口碑傳説」の碑によれば、鎌倉末期の1331年(元弘元年)、鎌倉幕府の倒幕の計画が知れた第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288-1339)は、京都を脱出し笠置山に籠って挙兵しますが、軍勢の旗色は悪く敗れてしまい、翌年1332年(元弘2年)3月に隠岐へ配流となりました。いわゆる「元弘の乱」と呼ばれる事件です。
天皇に想いを寄せていた姫は挙兵の報を聞きつけると、伊勢で病気療養中にもかかわらず駆けつけますが、時すでに遅く、天皇は追手から逃れるため、笠置山を後にしていたといい、姫は悲しみと長旅の疲れから持病が再発、「恋い焦がれ、病に苦しむような辛い事は自分一人で十分、人々の守り神となりたい」と言い残してこの世を去ったといいます。
これを憐れんだ人々が祠を建て、祀ったのが神社の始まりだと言い伝えられ、最期まで「天皇が恋しい、恋しい」と言い続けていたことから、いつしか親しみを込めて「恋志谷さん」と呼ばれるようになりました。
一方、天満宮社は江戸初期に柳生藩の第3代藩主・柳生宗冬が勧請したと伝わり、社前の石鳥居は1647年(正保4年)に寄進建立されたもので、鳥居には銘文が刻まれています。
剣豪として世に知られ、将軍家の兵法指南も務めた初代藩主の父・柳生宗矩や長兄・柳生十兵衛、次兄・友矩の2人の兄たちもこの地を愛し、神社に深い関わりがあるしるしとして寄進されたものであり、歴代の藩主がこの地を重要視した現れといえます。
そして恋志谷神社は元々は同じ南大河原の現在地よりやや西の古森と呼ばれた地に祀られていましたが、江戸末期の1864年(元治元年)に現在地に移され、天満宮と並んで合祀されて現在に至っています。
恋志谷神社は古くより子授け・安産の神として、また婦人病の平癒など女性の守り神として信仰されており、現在も橋を渡って参拝すればよく願い事が叶うといわれている神社へと通じる「恋路橋(こいじばし)」とともにとりわけ縁結びや恋愛運アップを祈願する人々が訪れるパワースポットとして人気を集めていて、、また毎年春と秋に行われる例大祭では普段はなかなか手に入らないお守りが授与されることもあり、遠方からも多くの参拝者が訪れるといいます。