京都府与謝郡与謝野町三河内、京都府北部の与謝野町の加悦谷のすぐ北、加悦や峰山とともに高級織物として知られる「丹後ちりめん」で栄えた三河内(みごうち)に鎮座する神社で、同地区の産土神。
奈良時代の712年(和銅5年)(または710年(和銅3年))、当時この地域で綾錦を織ることとなり、丹後国一の宮・籠神社の海部直愛志(あまべのあたええし)が勅命を奉じて筬村(おさむら)に「倭文神(しどりのかみ)」を祀ったのがはじまり。
この点、祭神である倭文神の「倭文(しどり/しとり・しずり/しとおり)」とは上古の織物の意味で、倭文神とは遠く神代の昔に織物を掌られたことで知られる機織りの始祖で織物の守護神とされる天羽槌雄命(あめのはつちをのみこと)(別名・建葉槌神(たけはつちのかみ))のことで、倭文神社はその倭文神を祖神とする倭文氏によって祀られた神社で、伯耆国一宮である鳥取県東伯郡湯梨浜町の倭文神社(しとりじんじゃ)や京都府舞鶴市の倭文神社など、全国各地に同名の神社が見られます。
平安中期の927年(延長5年)にまとめられ当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式神名帳」においては延喜式内社とされて官幣にも与り、第60代・醍醐天皇(だいごてんのう 885-930)の信仰も厚く、祭祀も盛んに行われたといい、981年(天禄12年)には従二位に列しています。
その後、鎌倉時代の1223年(貞応2年)に神託があり筬村(おさむら)から現在地の石崎の社に移されると、以来一般的には「石崎大明神」と尊称されたといいます。
江戸中期に絹屋佐平治らが京都の西陣より持ち帰った技術をもとに「丹後ちりめん」が京都府の丹後地方を中心に生産されるようになると、その御神徳によって三河内は江戸後期には加悦谷で最も縮緬機が多く豊かであったといい、歴代の領主をはじめ衆庶の更なる篤い信仰を集めたといいます。
古くから神仏習合し「石崎大明神」「石崎倭文大明神」などと呼ばれていましたが、明治初期の「神仏分離令」に伴って仏教色が一掃された際に社号を「倭文神社」に改称されています。
その後、1873年(明治6年)には村社、1907年(明治40年)には幣帛供進神社、更に1944年(昭和19年)の神祇院第19第33号によって府社に列し、終戦後に社格制度は廃止されたものの、以後も三河内の産土神として信仰を集め続けています。
現在の本殿は嘉永年間(1848-55)に焼失の後、江戸後期の再建と推定され、入母屋造で丹後の神社本殿の特徴を示す好例として高く評価され、1996年(平成8年)3月15日京都府登録文化財に登録されているほか、石崎古墳と呼ばれる4基の古墳が点在する境内全体が「倭文神社文化財環境保全地区」とされています。
現在は毎年春の5月4日に開催される丹後ちりめんの繁栄を今に伝える「三河内曳山祭(みごちひきやままつり)」で有名。
織物振興や五穀豊穣を祈願して行われる織物の神を祀る倭文神社の春の例祭で、1708年(宝永5年)に始まったと伝えられ、古くは旧暦の8月朔日に行われていましたが、昭和初期に4月の春祭となって「加悦谷祭」の一部として開催された後、近年は独立して5月2日の神幸祭、3日の宵宮、4日の例祭行列・余興巡行・還幸祭のスケジュールで行われています。
3日の「宵宮」で楽台と子ども屋台の計12基の山車が提灯をつけて町内を巡行した後、4日の「例祭」では大幟を先頭に神楽殿、そして華やかに飾られた浦嶋山・倭文山・春日山・八幡山の4基の山屋台や子ども屋台など計12台が巡行する「曳山行事」が行われます。
丹後の織物文化を象徴する「丹後ちりめん」でできた豪華絢爛な見送りや胴幕などで飾られた山車を目にすることができることから、別称を「丹後の祇園祭」とも言われる雅な神事で、「三河内の曳山行事」として京都府無形民俗文化財にも指定されているほか、2017年(平成29年)に日本遺産に認定された「300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊」の構成文化財にもなっています。