京都府相楽郡精華町祝園、京都府の南端、大阪府や奈良県にまたがり近年新たな産業や文化の発信の拠点となりつつあるけいはんな学研都市のある精華町の東側、木津川の流れにほど近いまだ田畑の数多く残る場所に鎮座する神社。
まだ古墳時代の頃、四道将軍を派遣して各地を討伐し大和朝廷の基盤を築きたとされ、実在した可能性のある最初の天皇ともいわれる第10代・崇神天皇(すじんてんのう B.C.148-B.C.30)の時代の紀元前88年(崇神天皇10年)、第8代・孝元天皇(こうげんてんのう)の皇子・武埴安彦(たけはにやすひこ)も朝廷に反乱を企てますが、この地にて討伐されました。
しかし武埴安彦の亡き魂は鬼神となって柞ノ森(ははそのもり)に留まり、長きに渡って人民を悩ませたといい、それを奈良時代の第45代・聖武天皇(しょうむてんのう 701-56)の時代に撲滅しようとしたものの鬼神の所業であるため人の力にでは如何ともし難かったといいます。
その後、聖武天皇の娘で第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう)から重祚して再即位した第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう 718-70)の時代に神力をもってこれを撲滅せよとの勅命が下ると、直臣の池田六良廣綱および宮城七良朝藤が祝部(はうりべ)となり、770年(神護景雲4年)1月21日に奈良・春日大社より春日大明神を勧請して祀り、これが神社のはじまりだといいます。
そして祈りの前に飲食や行動を慎むととも心身を洗い清める斎戒沐浴(さいかいもくよく)による精進祈願と神力の加護によってついに悪霊は撲滅し、廣綱・朝藤の功績とも相まって悪病平癒・人民安堵・農家の繁栄および商工業の隆盛を見るに至ったといい、現在も行われている「いごもり祭」はこの由緒が元になっているといいます。
文献上では平安初期の806年(大同元年)の「新抄格勅符抄」に「祝園神」の名が見えるのが最古ですが、この記録から少なくとも奈良時代には確実に存在していたと考えられ、その後もこのような霊験を持つことから「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)」によれば859年(貞観元年)正月27日に従五位下の神階を授けられ、また927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」の中でも延喜式内大社に列せられ、また室町時代の1441年(嘉吉元年)に書かれた「興福寺官務牒疏」には、在僧2人、祝主3人、および神人3人がいたことが記されているといいます。
戦国時代の1576年(天正4年)7月24日には天下泰平の国宣が出されるなど、上皇・法皇の御所に参上する官人や武将たちの尊崇も深く、社殿の修造に寄進がしばしば見受けられたといいます。
幕末の1867年(慶応3年)8月には有栖川官家よりおびただしい寄進を賜わって同宮家の祈願所となり、その後明治時代に入り1873年(明治6年)に郷社と定められ、以後も祝園村の産土神として現在に至るまで地域住民より厚く信仰されています。
行事としては前述の通り、朝廷に反逆を企てた武埴安彦が祝園地区で討伐されて以来、悪病の流行や田畑の荒廃による飢饉などに苦しんだ人々が、武埴安彦や討伐の最中に悲運にも亡くなった人々の魂を丁重に祀り慰めることで、神力によって災いをなくそうとはじめたとされている「いごもり祭(居籠祭)」が有名。
毎年正月の申の日から3日間、1月に申の日が3回ある年は中の申の日、2回の年は初めの申の日に開催され、山城地方を代表する奇祭の一つとして1984年(昭和59年)4月14日には「祝園の居籠祭」として京都府指定無形民俗文化財にも指定されています。
神事は1日目の暗夜の火祭の際には神を迎え祀るために氏子らがこぞって忌み籠もるところに特色があり、「音なしの祭り」とも呼ばれるように一切の音を禁じ静かに過ごす所からその名前で呼ばれるようになったといわれています。