京都市上京区大宮通盧山寺上る西入社横町、船岡山の南東、堀川通から上御霊前通を西へ250mほど進んだ住宅地に鎮座する神社。
「京内まいり」によれば、平安初期の850年(嘉祥3年)に第55代・文徳天皇の皇后・藤原明子(染殿皇后)が懐胎を祈願して大和国(奈良県)三笠山の春日大明神を勧請したのがはじまりとされています。
皇后は無事皇子、のちの清和天皇を出産しましたが、この春日大神鎮座の場所が山城国葛野郡「櫟谷(いちいだに)」とされ、さらに「七野」は、船岡山麓一帯にあった原野の総称で、紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野を指していて、これら七野の総社として祀られたといいます。
このように春日大神を奉祀したのが起源となっているため地元では「春日神社」とも呼ばれ、境内にもその名の石碑が建っているほか、境内には春日神の神使とされる鹿の像も見られます。
その後、室町時代に入り「応仁・文明の乱」に際しては、一体が東軍・細川勝元と西軍・山名完全が対峙する戦場と化し、神社も灰燼に帰しますが、1512年(永正9年)2月、周防の大名・大内義興の命により七野各社を高台の一所に集めて再興されます。
更に安土桃山時代には豊臣秀吉の命を受けた山内一豊によって再建されており、その際に秀吉は各大名に石垣の寄進を命じており、今は土や苔で見えにくくなっているものの、境内にある石には大名の家紋などが刻まれているのを確認することができます。
その後も、特に禁裏・仙洞・女院御所の崇敬篤く、1788年(天明8年)の「天明の大火」など、大火焼失などがある度に再興されました。
現在は「復縁祈願」「浮気封じ」のご利益で知られていますが、これは「雍州府誌」によれば平安前期、第59代・宇多天皇の皇后が、天皇の心が離れたことを悲しみ、夢のお告げに従って本殿の前に境内の白砂で奈良の三笠山を象った小さな山を築いて祈願したところ、天皇の愛情が戻り願いが叶ったという逸話に基づいたものだといいます。
この故事によって今も復縁を祈願して多くの参拝者が訪れるといい、社前に白砂を積んで祈願すれば復縁や浮気封じの願いが叶うといわれ、また社前に積む砂は「高砂山」と呼ばれるようになったといわれています。
また一帯は昔から「紫野」と呼ばれる天皇や貴族の遊猟地だった場所で、平安時代から鎌倉時代にかけては賀茂社に奉仕する斎内親王(斎王)が身を清めて住んだ「紫野斎院(賀茂斎院)」があった場所とされています。
同社は約150m四方を占めていたというその斎院の敷地内にあることから、境内にはこの紫野斎院の跡地を示す石碑が建てられています。
そのような斎王ゆかりの地ということもあり、京都三大祭りの一つ「葵祭」では、2001年(平成13年)から2015年(平成27年)にかけて斎王の代わりを務める斎王代がこの神社に参拝し、献茶をする「献茶式」が執り行われていました。