京都市上京区烏丸通一条下ル龍前町、京都御苑の西に位置し、京都御所の蛤御門の烏丸通を挟んで向かい側にある京都のテレビ・ラジオの放送局。
通称であるKBS京都と呼ばれることが多いですが、正式社名は「株式会社京都放送」でKBSは「Kyoto Broadcasting System」の略称から。
全国独立放送協議会に加盟する独立放送局で、AMラジオ放送は京都府と滋賀県、テレビ放送は京都府のみを放送対象地域とし、リモコンキーIDは「5」。
1951年(昭和26年)4月に民間放送初の予備免許を取得し、同年6月26日に会社が創立された後、更に同年12月24日日本で民放5番目となるラジオ局として開局したのがはじまりで、当初は現在の前株ではなく後株の「京都放送株式会社」で愛称は「ラジオ京都」でした。
1964年(昭和39年)10月に社名を「株式会社近畿放送」、局名を「近畿放送」に変更の後、1969年(昭和44年)4月にはテレビ放送も開始され、「近畿放送テレビ」の愛称で親しまれました。
会社は当初は京都新聞社の烏丸通を挟んで反対側にりましたが、1965年(昭和40年)5月に京都新聞社ビルに新社屋が完成。
更に1981年(昭和56年)4月には開局30周年を機に本社を烏丸上長者町の地上5階・地下1階建の新社屋へと移転するとともに、呼称を「KBS京都」とし、現在に至るまで親しまれています。
その後、親会社の京都新聞社にもまたがる経営陣の内紛や、大阪市にあった日本の総合商社・伊藤萬株式会社をめぐって発生した商法上の特別背任事件で、日本における戦後最大の経済事件ともいわれる「イトマン事件」に巻き込まれるなどで経営が悪化し、1994年(平成6年)9月22日に労働組合員有志が給与未払いを理由に京都地方裁判所に会社更生法適用を申請して経営破綻し、事実上の倒産となります。
これは免許事業である民間放送局としては日本初の倒産事例で電波停止一歩手前という状態でしたが、「京都唯一の民間放送局を守ろう」という掛け声ので下、申請の数年前から市民やリスナー・視聴者らによって存続の署名運動まで行われていたこともあり、免許停止や廃局の危機は免れて放送は一日も途切れることなく継続されたといいます。
1996年(平成8年)10月には呼称の「KBS京都」はそのままに、社名はかつての称号を冠した「株式会社京都放送」に変更され、1999年(平成11年)2月には会社更生法による更生計画に基づく減資・増資が実施され、京都新聞社が筆頭株主に復帰するとともに任天堂やワコール、オムロン、京セラといった京都に本社を置く大手企業が次々と出資する形で、新資本による新生KBS京都がスタートし、2007年(平成19年)10月には京都地方裁判所によって会社更生手続の終結が決定されました。
京都府下のニュースやスポーツ、イベント情報をラジオ・テレビで発信しており、テレビでは、京都の出来事を伝える「ニュースフェイス」や「京bizX」、スポーツ情報を伝える「京スポ」のほか、「京都サンガF.C.」のサッカーの試合やプロ野球の阪神戦、高校野球や高校サッカーの京都大会、競馬中継などさまざまな番組を放送し、また「祇園祭」や「五山の送り火」といった京都を代表する伝統行事や、桜や紅葉の時期には「京都夜桜生中継」「京都紅葉生中継」、更には「京都マラソン」なども生中継で放送を行っています。
そして自社制作のドラマ・バラエティなどのオリジナル番組の他にも、他のキー局系列局で放送されていないキー局などが制作した番組の一部も放送しており、台湾や韓国などの海外のドラマや「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」とった過去の時代劇の名作などが放映されることもあります。
また放送事業の他にも京都や滋賀でイベントを多数開催しており、放送会館内にあるあらゆるイベントに対応した多目的ホールである「KBSホール」では、KBSの番組の公開生放送やコンサート、イベントなどが頻繁に開かれています。
その他にもKBS京都の文化事業として1981年(昭和56年)4月にKBS京都3階にて開校した「KBSカルチャー」の運営も行っており、書道や絵画、源氏物語や万葉集を読む文学講座、放送局のアナウンサーが指導する話し方講座・アナウンス講座・司会者講座、更には京都らしい日本刺繍、裏打ち表装、仕服などのたくさんの講座が用意されています。