京都市下京区中堂寺通大宮西入薮之内町、大宮通と中堂寺通の交差点を西に入ってすぐに鎮座する神社。
ちなみに下京区には他にも醒ヶ井と島原にも住吉神社があるため、ここでは「中堂寺住吉神社」と呼んで区別することにします。
延暦年間(782-806)に、摂津住吉宮、現在の住吉大社(大阪市南部の住吉区)より住吉大明神を勧請したとされます。
「住吉大社」は全国に2300以上もある住吉神社の総本社で、祭神は住吉大明神。
伊弉諾尊が禊祓を行われた際に海中より出現された住吉三神
底筒男命(そこつつをのみこと)
中筒男命(なかつつをのみこと)
表筒男命(うわつつをのみこと)
に加え、神社を創建したとされる神功皇后が併せ祀られています。
「日本書紀」や「古事記」によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)とその妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)は国産みの神として大八島を生んだ後、神産みとして様々な神を生み出しましたが、伊邪那美命は迦遇槌命(かぐつちのみこと)(火神)の出産による火傷によって亡くなってしまいます。
このため伊邪那岐命は伊邪那美命を死者の世界である黄泉の国(よみのくに)から連れ戻そうとしますが、望みを果たすことができず穢れを受けてしまいます。
そこでその穢れを清めるために阿波岐原(あわきがはら)の海に入り禊祓いをした時、瀬の深い所で底筒男命(そこつつのおのみこと)、流れの中間で中筒男命(なかつつのおのみこと)、そして水表で表筒男命(うわつつのおのみこと)が生まれたといい、このことから住吉三神には穢れを祓う神徳があるとされています。
そして住吉大社が創建されたのは211年(神功皇后摂政11年)、第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后である神功皇后(じんぐうこうごう)が「三韓征伐(さんかんせいばつ)」を終えた後のこと。
皇后は妊娠中にもかかわらず朝鮮半島へと出兵して強大な新羅を平定し、無事に後の応神天皇(おうじんてんのう)を産んだとして知られていますが、この三韓征伐の際に住吉大神の加護を得たとされていて、凱旋の途中に現在地に住吉三神を祀ったのがはじまりで、その後に神功皇后も併せ祀られて「住吉四社大明神」とされています。
313年(仁徳天皇元年)に都を難波高津宮に定めた頃に住吉津が開港されて以来、遣隋使・遣唐使などの海上安全・航海の守護神として崇敬を集め、平安時代の927年(延長5年)に「官社」に指定されていた全国の神社を一覧にまとめた「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」においては名神大社、二十二社の一社に、また11世紀~12世紀の平安時代から鎌倉時代にかけて成立した一宮(いちのみや)の社格制度においても摂津国の「一之宮」とされ、更に明治維新以降の近代社格制度においても官幣大社に列せられるなど、1800年にわたって水都大阪の守護神として大阪の街を見守り続け、現在も初詣に250万人もの人々が参拝する大阪を代表する神社として知られています。
中堂寺にある住吉神社は延暦年間(782-806)に、その住吉大社より住吉大明神を勧請し創建され、その後平安後期の1138年(保延4年)、「小倉百人一首」にも歌が収録されるなど歌人としても知られる中納言・藤原顕輔(ふじわらのあきすけ 1090-1155)の殿社内に再興されました。
その後、室町時代に「応仁の乱」の兵火で焼失し、油小路六条の地へ移った後、1591年(天正19年)に本願寺の移築のため旧地へ戻って再興され、更に1787年(天明8年)に「天明の大火」により焼失した後、現在の社殿は江戸後期の1825年(文政8年)に修復されたものといいます。
祭神は「住吉大明神(住吉三神)」
底筒男命(そこつつをのみこと)
中筒男命(なかつつをのみこと)
表筒男命(うわつつをのみこと)
いずれも、国産みの神として知られる伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が穢れを祓った際に生まれた神様で、災難を除き病魔を守り、夫婦円満敬愛の神徳が極めて厚く旅行渡海の所難を救うとされています。
そしてこの他にも境内社として稲荷、金比羅、天満宮、道祖の社が祀られています。
一般的には9月第4金土日に開催される例祭の「住吉祭」で知られていて、稚児行列を先頭に3基の剣鉾と大小の神輿が巡幸し、五条大宮の交差点で差し回しが行われるのが一番の見どころ。
神輿は江戸中期の1708年(宝永5年)始めと伝えられ、地域の文化財として伝統的に受け継がれてきたもので、1787年(天明8年)には大火により焼失するも、付属の小道具は無事であったため、1790年(寛政3年)に再建され、以降1897年(明治30年)に修復を行い現在に至っています。
また前日の宵宮に奉納される「中堂寺六斎念仏」は、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能で、今も京都各地の寺院及び保存団体によって伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されている「六斎念仏」の一つです。
ちなみに一帯の「中堂寺」という地名は、平安時代にこの地に比叡山延暦寺の横川中堂の別院として創建された同名の寺院に由来するものだといい、右京の衰退に伴って農村地帯として都への野菜供給地となり、とりわけ漬物用の茎大根は「中堂寺大根」として知られていました(現在も京の伝統野菜として左京区松ヶ崎で栽培が続けられているという)。