京都市下京区烏丸通塩小路下る東塩小路町、京都の玄関口である京都駅の駅ビルにテナントを構える大手百貨店として知られる伊勢丹の京都店。
JR西日本(西日本旅客鉄道)と三越伊勢丹ホールディングスとの合弁会社である「株式会社ジェイアール西日本伊勢丹」により、京都駅ビルの開業に合わせてオープンされ、京都駅ビルの主要テナント施設の一つとなっています。
「伊勢丹」は呉服店を起源とする日本の老舗百貨店で、現在は「株式会社三越伊勢丹ホールディングス」傘下の「株式会社三越伊勢丹」が運営を行っています。
明治時代中期の1886年(明治19年)11月5日、養家・伊勢又から分家した初代・小菅丹治が中山道沿いの神田旅籠町、現在の東京都千代田区外神田一丁目付近に呉服太物商「伊勢屋丹治呉服店」を創業したのがはじまり。
創業者の初代・小菅丹治(こすげたんじ 1859-1916)は江戸時代末期の1859年に現在の神奈川にあたる地域で農家の次男として誕生した後、13歳の時に東京の湯島天神近くの呉服店「伊勢庄」に奉公に上がり。厳しい修業の後に28歳で独立。
神田明神下に小さな呉服店を開いた丹治は懸命に働くとともに、創業当時から「独創性のある良いものを提案すること」をモットーに創意工夫を重ねて一代で伊勢丹を東京五大呉服店の一つにまで成長させ、明治30年代には「帯の伊勢丹、模様の伊勢丹」と言われるまでになりました。
初代が築き上げた人気呉服店を、百貨店にまで進化させ、中興の祖と呼ばれるのが2代目小菅丹治(こすげたんじ 1882-1961)で、2代目丹治は元々は名前を高橋儀平といい、現在の神奈川県小田原市内の農家に末っ子として生まれ、小学校を卒業すると呉服店に丁稚奉公に出されますが、初代丹治に商才を見込まれて小菅家の婿に入り、婿養子として2代目丹治を襲名します。ちなみにこれ以後伊勢丹の代々の経営者は小菅丹治の名を継承しています。
その後「関東大震災」によって神田の店舗が焼失する憂き目に遭いますが、震災からの復興を新しい機会と捉え、1924年(大正13年)3月に呉服店から幅広い商品を売る百貨店形式とするとともに1930年(昭和5年)3月には資本金50万円にて「株式会社伊勢丹」を設立。
そして関東大震災直後に、三越や松坂屋といった老舗が当時は繁華街としての位が高かった銀座への出店を決める中で、東京郊外の住宅地の発展を見据えて将来の商圏拡大が有望視された新宿に進出することを決意。
創業の地である神田の神田店を閉店し、新宿三丁目の路面電車車庫跡地を落札して1933年(昭和8年)9月28日に「新宿本店」を開店します。
新宿本店の建物は幾何学模様をモチーフにしたアール・デコ様式で建造されており、現在は東京都の歴史的建造物にも選定されていて、登録標章が本館1階の新宿三丁目交差点付近の外壁に設置されています。
更に当時の新宿本店の隣には1926年(大正15年)1月に開店した「ほていや」という百貨店が先んじて存在していましたが、激しい競争の末に経営不振に陥り、1935年(昭和10年)に伊勢丹がほていやを買収する形で新宿店を増床。
新宿三丁目という超一等地の確保に成功した伊勢丹は、新宿における百貨店としてトップの地位を固めることに成功します。
第二次世界大戦の終結直後の1947年(昭和22年)に東京の西部に初の支店となる立川店を開業すると、1960年代の高度経済成長期を経て1970年代からは海外にも進出。
その一方で、国内でも東京を拠点にしつつ周辺エリアにも店舗網を拡大していきます。
しかし1990年代のバブル崩壊に伴う地方の資産家の没落を受けて地方店舗の収益が悪化して経営を圧迫、更に1990年代から2000年代にかけ特定ジャンルの商品を専門に販売する専門店の台頭によって百貨店業界の競争優位性が失れたこともあり、収益率が低下した百貨店業界は再編が相次ぐこととなります。
この流れを受けて2009年(平成21年)に伊勢丹と江戸時代前期に創業した老舗百貨店の三越との間で経営統合が実施されて「三越伊勢丹HD」が発足した後、2011年(平成23年)4月1日には、三越が伊勢丹を吸収する形で合併が行われ「株式会社三越伊勢丹」が設立されます。
この点、合併における存続会社は三越となり、現在の伊勢丹は株式会社三越伊勢丹ホールディングス傘下となった株式会社三越伊勢丹が運営する形となりましたが、登記上の本社は東京都新宿区新宿3丁目の伊勢丹本店内に置かれています。
ファッション性の高い衣料品の販売で中高年はもとより若い世代からも支持を集め「ファッションの伊勢丹」と称されるほどファッション関連商品に強い百貨店として発展してきた歴史を持ち、1956年(昭和31年)には新カテゴリーとして10代の女性向けファッションを集積したティーンエイジャーショップをオープンし、有名なタータンチェックの手付袋はここから誕生しました。
その他にも1963年(昭和38年)には他の百貨店と共同で日本人の体験にフィットしたサイズの体系を作り、これは後に百貨店の統一サイズとなったほか、男性がファッションに興味を持ち始めたことを受け、同年日本で初めて紳士服専門百貨店「男の新館(現在のメンズ館)」をオープンし成功させたことで、紳士服は売れないという業界のジンクスを破るとともにファッション界に新風を吹き込みました。
また1994年(平成6年)には新鋭デザイナーをインキュベートして世に送り出す新たな試みとして情報発信スペース「解放区」をスタートさせています。
創業と同時に定められた店章は伊勢屋丹治の頭文字の「伊」を丸で囲んだもので、筆文字の書体は創業者である小菅丹治の筆によるものと言われていて、丸い枠は太陽の丸とともに、人間的な丸味、成熟した円満さを表わしているといいます。
現在はこれとは別に主にローマ字表記の「ISETAN」の文字をデザイン化したものが企業ロゴとして用いられていますが、これは創業100周年の1986年(昭和61年)2月から使用されているもの。
これらの「ISETAN」の文字うち、デザイン化された「i」の文字は私=消費者、すなわち私の店を意味するほか、日本一、世界一を目指す企業としてのナンバー1の意味を含むと同時に、未来へ着実に伸びていく企業をイメージしているといい、また「i」の上部にある丸は、未来を見通す伊勢丹の目、視野の確かさ、視野の良さを表現しているといいます。
「JR京都伊勢丹」は伊勢丹の関西地区進出第1号店であり、1990年(平成2年)に平安遷都1200年事業のJR京都駅の改築プロジェクトに際してJR西日本と合弁する形で設立された「株式会社ジェイアール西日本伊勢丹」によって、現在の京都駅ビルが完成した1997年(平成9年)9月に開店した店舗です。
「毎日が、あたらしい。ファッションのジェイアール京都伊勢丹」をコンセプトに「衣・食・住・遊」すべてをファッションとして捉え、新しいライフスタイルの提案を行う、見やすく、買いやすい百貨店づくりを目指したといい、開業以来34か月連続で前年実績を上回る売上高を推移するなど、不況が続く中でも順調な業績を収め、2020年(令和2年)2月26日には地下1階~5階の食品、婦人ファッションフロアが順次再編し、海外のハイブランドを多数導入したほか、化粧品売り場を約2倍に拡充するなど、1997年の開業以来最大規模となるリニューアルが行われ現在に至っています。
店舗は京都駅ビルの西側、地下2階から11階までの大部分を占め、JR京都駅の西口改札前に店舗2階へと続く入口が直結するほか、店の東側には烏丸中央口が隣接し、中央口から続くエスカレータを上がった先には京都駅ビル名物の大階段が11階まで続いていますが、その両脇にも伊勢丹の各階へと連絡する入口が設けられており、まさに京都駅ビルと一体化した構成となっています。
そして他の百貨店同様に地下1・2階のデパ地下は食料品売り場が設けられているほか、1~5階が化粧品や婦人雑貨、ブティックなどの婦人向け、6階が紳士、7階が子供向け、8階がキッチンや寝具などの生活用品、9階がスポーツやトラベル、装飾品やメガネ売り場などで占められ、10階には催物場や有名店が多数軒を連ねる「京都拉麺小路」、そして11階にレストラン街「イートパラダイス」が配置されています。
催し物も多く、毎年9月11日の「創業祭」のほか、シーズン毎に開催されている「北海道展」や「アンテナショップ&道の駅フェア」などは特に人気の企画です。