京都市下京区堺町通松原下る鍛冶屋町、仏光寺の南側の住宅地の民家と民家の間の狭い路地の奥にある小さな神社とそこにある井戸跡。
この地は昔から鉄輪で築かれた「鉄輪塚」と呼ばれる塚と「鉄輪の井戸」と呼ばれる井戸があることで知る人ぞ知る場所でした。
その昔、ある女が自分を捨てて他の女の元へ去った夫を恨み、夫と後妻を祈り殺そうと貴船神社で「丑の刻詣り」をし一心不乱に祈り続けると、その成果があってか夫は毎晩悪夢に苦しむようになります。
しかし夫に助けを求められた陰陽師・安倍晴明の調伏によって妨げられて満願を前に志を果たせず、精魂尽き果てた女は家の近くの井戸に身を投げて亡くなったといわれています。
そして塚は亡くなった女を葬った塚で、井戸は女が身投げをした井戸だといわれていて、この伝承から縁切りの井戸として井戸水を汲んで相手に飲ませると悪縁が切れると信じられていたといい、この丑の刻詣りの女の話は民間伝承として後世に伝えられ、世阿弥作の能の謡曲「鉄輪」の題材にもなっています。
そして町衆が興隆期に入った江戸初期の1668年(寛文8年)には縁切りの井戸では良くないとの理由もあってか、伏見の稲荷本宮・伏見稲荷大社より稲荷神を勧請して祀り「命婦稲荷社」が創建され、鎮座以来、鍛冶屋町の守護神として、また家庭円満、商売繁昌をの神様として崇敬を集め、町民により大切に守られていたといいます。
その後明治時代となり、1877年(明治10年)に市中の小祠廃止の府令に従って命婦稲荷は閉鎖され、いったんは忘れれ去られますが、1935年(昭和10年)8月に御神体が町内の蔵から出現したのをきっかけとして、町民の熱意により同年11月に現在地に再建されます。
そしてこの時の工事で発掘された「鉄輪」の碑を御神体として祀り「鉄輪社」とし現在に至っています。
ちなみに「鉄輪(かなわ)」とは、本来は火鉢や囲炉裏で鍋ややかんなどを乗せるための三本足の五徳(ごとく)という鉄の輪ですが、「丑の刻参り」で頭にロウソクあるいは松明を付ける時に用いたもので、身投げした女性が被っていたことからその名がついたと考えられています。
現在では地下鉄工事の影響で井戸は枯れてしまっているとのことで、金網がかぶせてあり水を汲むことはできないようになっていますが、現在でもペットボトルに水を入れて鉄輪井に供えて祈り持ち帰るなど、縁切りのためにわざわざ足を運ぶ人が絶えないといいます。