京都市南区東九条烏丸町、九条烏丸交差点に位置する真言宗泉涌寺派の寺院。
この地は元々は藤原氏の邸宅の一つ「九条殿」があった場所で、藤原道長の孫・藤原信長(1023-94)が1085年(応徳2年)にその邸内に丈六佛を安置するために建てた「九条堂(城興院)」が寺の起源とされています。
そしてその3代後の関白・藤原忠実(1077-1162)が1113年(永久元年)にこの堂を鎮護国家の道場として寺に改めたのがはじまりで、1123年(保安3年)に盛大な伽藍供養がおこなわれました。
創建当初の境内伽藍図では現在の烏丸町全域に及んでいたとされる広大な寺域を誇り、当初は、四宗(顕・密・禅・律)兼学の道場でしたが、のちに天台宗となります。
平安末期には天台座主・最雲法親王の没後その弟子の以仁王(もちひとおう)がこの地を領しますが、1179年(治承3年)に平氏によってその寺領を奪われたことが、後の平氏討伐の挙兵の一因になったといわれています。
その後は延暦寺不動院の管理に属しますが「応仁の乱」で衰微。
2006年現在は真言宗泉涌寺派に属し、伽藍は本堂(観音堂)と庫裏、寺内社として薬院社を残すのみとなっています。
ちなみに薬院社は奈良時代に聖武天皇と光明皇后が創始した医療と施薬の役所で、今日の病院と福祉施設を合わせた施設「施薬院」「施薬院御倉」に祀られていたという稲荷の祠で、鎌倉初期に施薬院が移転された後は、地元の鎮守として祀られるようになったといいます。
本堂に安置されている本尊・千手観世音菩薩は円仁(慈覚大師)の作で、838年(承和5年)に遣唐使の一員として入唐した際に無事の帰国を願い船中で造作したと伝わる像で、「洛陽三十三所観音めぐり」の第二十二番札所にもなっています。
また小指で描かれた指詩(ゆびことば)「小指みくじ」の授与でも有名なほか、「写仏体験」ができることで知られ、「写仏会」を毎日開催しています。