菊水鉾
菊水鉾とは?(基本データ)
- 名前
- 菊水鉾(きくすいほこ)
- エリア
- 三条寺町・四条河原町
- ジャンル
-
- 歴史
- 江戸後期1788年(天明8年)の「天明の大火」や幕末1864年(元治元年)の「蛤御門の変(禁門の変)」で相次いで焼失
戦後の1952年(昭和27年)に地元の繊維業者が中心となって復興
- 種類
- 鉾(ほこ)
- 真木・稚児
- 透かし彫の金色の菊花(十六菊)
菊慈童(枕慈童)の稚児人形
- ご利益
- 不老長寿・商売繁盛
- 山鉾建て
- 7/10 9:00~
- 曳き初め
- 7/12 15:00~
- 会所公開
- 7/13 14:00~
- 授与品
- 粽(鉾拝観券付)、ミニ粽ストラップ、手ぬぐい、扇子、絵馬、御茶席券、亀廣永の銘菓「したたり」など
- 巡行順
- 前祭9番目・13番目・17番目のいずれか(菊水鉾・鶏鉾・月鉾の3つの鉾のくじによる抽選)
- 懸想品
- [前懸]
「飛鶴図」(1954年(昭和29年)・皆川月華作)
[胴懸]
「唐獅子図」(1954年(昭和29年)・皆川月華作)
[見送]
「月華作孔雀図」(1955年(昭和30年))
「深山菊水図綴織」(岩澤重夫筆)
- 紋章
-
- アクセス
-
- 駅からJR 線「 」駅下車 徒歩約 分
- から京阪電鉄「 」駅下車 徒歩約 分
- 駅から京都市営バス「 」( 号系統)下車
- 名神高速道路「 IC」より約 分
- 住所
- ■菊水鉾保存会
〒604-8154
京都府京都市中京区室町通四条上る菊水鉾町588
- 公式サイト
- -
菊水鉾の地図
菊水鉾のみどころ (Point in Check)
室町通四条上るに位置する鉾。
町内に古くからあった井戸「菊水井」にちなんで命名され、鉾頭には透かし彫の金色の菊花が天に向かってつけられており、真木の中ほどの「天王座」には彭祖像、また稚児人形も魏の文帝の勅使が薬水を求めて山に入った際に出会ったという、菊の露を飲んで700年もの間不老長寿を保った少年「菊慈童(能の曲目で観世流以外は「枕慈童」の題名)」を題材とし能装束の舞姿をしています。
江戸後期の「天明の大火」(1788)や幕末の「蛤御門の変(禁門の変)」(1864)で相次いで焼失するも、戦後の1952年(昭和27年)に地元の繊維業者が中心となって復興を果たしています(翌年完工祭)。
他の鉾と異なり屋根が曲線的な唐破風(からはふ)造りであるほか、昭和に再建された「昭和の鉾」であることから、懸想品も昭和から現代に活躍した作家のものが多いのが特徴で、新たな装飾品も次々と新調されています。
また会所では山鉾町の中で唯一お茶席が開催されることでも知られていて、表千家・裏千家・遠州流によるお茶会が日替わりで開催され、菊水鉾のために作られた亀廣永の銘菓「したたり」を楽しみながらお茶を頂くことができます。
菊水鉾の主な行事・カレンダー
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菊水鉾のレポート・旅行記
菊水鉾の口コミ
- β版公開:2017/07/14(Fri)
- 登録日時:2017/07/14(Fri)
- 最終更新:2017/07/21(Fri)
菊水鉾とは?(基本データ)
- 名前
- 菊水鉾(きくすいほこ)
- エリア
- 三条寺町・四条河原町
- ジャンル
- 歴史
- 江戸後期1788年(天明8年)の「天明の大火」や幕末1864年(元治元年)の「蛤御門の変(禁門の変)」で相次いで焼失
戦後の1952年(昭和27年)に地元の繊維業者が中心となって復興 - 種類
- 鉾(ほこ)
- 真木・稚児
- 透かし彫の金色の菊花(十六菊)
菊慈童(枕慈童)の稚児人形 - ご利益
- 不老長寿・商売繁盛
- 山鉾建て
- 7/10 9:00~
- 曳き初め
- 7/12 15:00~
- 会所公開
- 7/13 14:00~
- 授与品
- 粽(鉾拝観券付)、ミニ粽ストラップ、手ぬぐい、扇子、絵馬、御茶席券、亀廣永の銘菓「したたり」など
- 巡行順
- 前祭9番目・13番目・17番目のいずれか(菊水鉾・鶏鉾・月鉾の3つの鉾のくじによる抽選)
- 懸想品
- [前懸]
「飛鶴図」(1954年(昭和29年)・皆川月華作)
[胴懸]
「唐獅子図」(1954年(昭和29年)・皆川月華作)
[見送]
「月華作孔雀図」(1955年(昭和30年))
「深山菊水図綴織」(岩澤重夫筆) - 紋章
- アクセス
-
- 駅からJR 線「 」駅下車 徒歩約 分
- から京阪電鉄「 」駅下車 徒歩約 分
- 駅から京都市営バス「 」( 号系統)下車
- 名神高速道路「 IC」より約 分
- 住所
- ■菊水鉾保存会
〒604-8154
京都府京都市中京区室町通四条上る菊水鉾町588 - 公式サイト
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菊水鉾の地図
菊水鉾のみどころ (Point in Check)
室町通四条上るに位置する鉾。
町内に古くからあった井戸「菊水井」にちなんで命名され、鉾頭には透かし彫の金色の菊花が天に向かってつけられており、真木の中ほどの「天王座」には彭祖像、また稚児人形も魏の文帝の勅使が薬水を求めて山に入った際に出会ったという、菊の露を飲んで700年もの間不老長寿を保った少年「菊慈童(能の曲目で観世流以外は「枕慈童」の題名)」を題材とし能装束の舞姿をしています。
江戸後期の「天明の大火」(1788)や幕末の「蛤御門の変(禁門の変)」(1864)で相次いで焼失するも、戦後の1952年(昭和27年)に地元の繊維業者が中心となって復興を果たしています(翌年完工祭)。
他の鉾と異なり屋根が曲線的な唐破風(からはふ)造りであるほか、昭和に再建された「昭和の鉾」であることから、懸想品も昭和から現代に活躍した作家のものが多いのが特徴で、新たな装飾品も次々と新調されています。
また会所では山鉾町の中で唯一お茶席が開催されることでも知られていて、表千家・裏千家・遠州流によるお茶会が日替わりで開催され、菊水鉾のために作られた亀廣永の銘菓「したたり」を楽しみながらお茶を頂くことができます。