京都府宮津市文珠にある臨済宗妙心寺派の寺院。
山号は天橋山(てんきょうざん)または五台山(本尊が文殊菩薩であることからの通称)。
古くから「三人寄れば文殊の知恵」で知られる「文殊菩薩(もんじゅぼさつ)」を本尊とする文殊菩薩の霊場で、奈良県桜井市の安倍文殊院(安倍文殊)、山形県高畠町の 大聖寺(亀岡文殊)などとともに古来より「日本三文殊」の一つに数えられています。
国宝の雪舟作「天橋立図」にもその姿が見られるほか、現在も智恵を授かる「文殊さん」として人気を集め、受験や資格試験などの受験生、その家族などが多く参拝に訪れます。
また天橋立駅を降りてすぐ、日本三景の一つである景勝地「天橋立(あまのはしだて)」の南岸の桟橋の近くにあり、北へと続く天橋立観光の起点に位置していることから、相対する北岸の成相寺とともに天橋立観光の大きな目玉の一つにもなっている寺院です。
本尊の文殊菩薩(重文)は鎌倉期のもので于?王と善財童子を従え獅子に騎乗する文殊菩薩像。
一説には中国五台山の文殊菩薩を勧請したとも伝わり、「九世戸縁起」によれば日本の国土創生の際にこの地で暴れていた悪龍を鎮めるため、中国より智恵第一の仏様で、龍神の導師でもある文殊菩薩を招請し悪龍を教化したといいます。
その霊験は謡曲「九世戸(くせのと)」「丹後物狂(ものぐるい)」でも知られ、「切戸(きれと)の文殊」「九世戸(くせど)の文殊」「知恵の文殊」などの通称を持っています。
詳しい創建年代は明らかではありませんが、寺伝によれば平安中期の808年(大同3年)に平城天皇(へいぜいてんのう)の勅願寺として創建。
また延喜年間(901-23)には、醍醐天皇から勅額を下賜されたといいます。
創建当初は真言密教でしたが、鎌倉末期の嘉暦年間(1326-29)に嵩山(すうざん)によって中興された際に臨済宗(のち妙心寺派)に転じたといます。
江戸時代には歴代の宮津藩主の保護を得て寺勢が興隆。
江戸初期の藩主・京極高広(きょうごくたかひろ)が寛永年間(1624~44)に別源(べつげん)を招いて再興(中興開山)すると、第2世住持南宗和尚が明暦年中に文殊堂修理を行ったのをはじめ、8世完道和尚、10世蘭渓和尚などが諸堂宇修理に尽力。寺領50石、末寺25か寺、塔頭は久昌院・本光院・寿昌院・対潮庵・心月院の5院を従え、本堂(文殊堂)・鐘楼・山門・方丈・経蔵・地蔵堂・観音堂・多宝塔・衆寮などの諸堂が整備されたといいます。
現存する多宝塔は室町時代の1500年(明応9年)の造営で国の重要文化財。
本堂、山門、方丈などはいずれも近世以降に再建されたものです。
文化財の宝庫でもあり、秘仏の文殊堂本尊の文殊菩薩像(木造騎獅文殊菩薩座像)・脇侍(きょうじ)善財童子・優(うてん)王像は鎌倉期の作で、国の重要文化財。
その他にも徹書記(てつしょき)の筆といわれる「仮名縁起」1巻、1486年(文明18)の「九世戸智恩寺幹縁疏(かんえんそ)」1巻など寺史を語る文書が残されています。
境内には
和泉(いずみ)式部の歌塚
鎌倉時代鋳造の鉄湯船(重要文化財)
またすぐ横の連絡船乗り場の近くに智恵の輪灯籠(ちえのわとうろう)
マリア灯籠などの見所もあります。
本尊は秘仏だが、正月3が日、1月10日、7月24日の年5日の開帳日があり、このうち1月10日は福徳長寿の福棒を福娘たちが授与する「文殊堂十日えびす」、また7月24日は太古の昔、龍神教化のために文殊菩薩を海上からお迎えしたという故事にならった「文殊堂出船祭」が開催され大いに賑わいます。