京都府向日市向日町北山、阪急「西向日」駅より北西へ約900mの所に鎮座する神社で、「向日明神(みょうじん)」「明神さん」の名でも親しまれていいます。
同神社のある市の名前にもなっている「向日(むこう)」は「日ニ向カウ」、すなわち東山から日が昇り西山に沈むまで陽光を浴びる土地という意味で、古くから農耕が営まれてきた肥沃なこの土地の産土神(うぶすながみ)として崇拝され、現在でも農家の信仰が厚いといいます。
社伝によると奈良時代初期、718年(養老2年)の創建。
元々は古のころから地元の人々より尊崇を受けていた2つの神社、すなわち同じ向日山に鎮座する向日神を祀る「向神社(むこうじんじゃ)(上ノ社)(かみ)」と、火雷大神を祀る「火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)(乙訓坐火雷神社)(下ノ社)(しも)」という別々の神社として創建されました。
このうち「向神社」は大歳神(おおとしのかみ)の子・御歳神(みとしのかみ)が同地にあった山に登った際にその山を「向日山」と称し、永くこの地にとどまり、稲作を奨励したことにはじまり、その由緒から「向日神」と呼ばれ、五穀豊穣の神として信仰を集めました。
他方「火雷神社」は神武天皇が大和国橿原から山城国へ遷った際に、神々の土地の故事により向日山麓に社を建てて「火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)」を祀ったことがはじまりといわれ、祈雨および鎮火の神として信仰を集め、その後718年(養老2年)の社殿の改築にあたり、下鴨神社の祭神として知られる火雷大神の妃神・玉依姫命と創建者・神武天皇を合祀しています。
いずれも朝廷からの崇敬厚く、927年に成立した「延喜式神名帳(えんぎしき)」に名前が記されている古社で、「向神社」は859年(貞観元年)に従(じゅ)五位下の神階を授けられ、延喜式では小社に列して祈年の官幣にあずかった延喜式内社で、他方「火雷神社」は名神大社「乙訓坐火雷神社(乙訓神社)」の論社でした。
しかし中世に入って火雷神社(下社)は荒廃。鎌倉時代、後宇多天皇(ごうだ)の時代の1275年(建治元年)に、向神社(上社)に併祀され「向日神社」と改められ現在に至っています。
祭神は
向神(むかいのかみ)、
乙訓坐火雷神(おとくににますほのいかずちのかみ)、
神武天皇(じんむてんのう)、
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
を祀(まつ)る。
この点、向神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子)の子にあたる大歳神(おおとしのかみ)で、別名「向日神(むかいのかみ)」とも呼ばれていいます。
正面入口の鳥居から長い石畳の参道を進んだ先に舞楽殿、拝殿を経てその奥に本殿があり、現在の本殿は1418年(応永25年)の造営。
室町時代の流れ造りの建築様式「三間社流造(さんげんしゃながれづくり)」の代表的な建築物で、国の重要文化財に指定。
東京の明治神宮の本殿のモデルになったことでも知られています。
ちなみに明治神宮のものは向日神社の本殿を1.5倍のスケールにして設計・建築されたといわれています。
●寺宝としては同じく重要文化財に指定の紙本墨書「日本書紀 神代紀 下巻」が元は醍醐寺理性院の所蔵本で、南北朝時代の写本として有名です。
境内は地元の人たちの憩いの場となっているだけでなく、四季折々の草花を楽しむこともでき、とりわけ春は桜の名所として有名。
1100本ともいわれる桜が境内を彩るほか、入口の大鳥居から本殿へ向けて緩やかな坂道が真っ直ぐ続く石畳の参道が見事な桜のトンネルとなり、また桜祭りも開催されて多くの人で賑わいます。
行事としては5月1日の例祭のほか、また4月の桜祭り、7月の夏越の祓、10月の御火焚き祭りなどが知られ、夏には星空コンサート、秋には観月の夕べなども開催され、地元の人々を中心に多くの人が集まります。