京都市東山区小松町にある禅宗寺院で、臨済宗建仁寺派大本山。一般に「けんねんじ」とも。
「都をどり」で知られる祇園甲部歌舞練場とその花街に隣接する祇園・花見小路通に位置し、地元では「けんねんさん」の名で親しまれています。
鎌倉初期の1202年(建仁2年)、鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で2代将軍・源頼家の援助により、日本における臨済宗の開祖・栄西を開山として創建。
京都における最初の禅寺で、寺名は当時の年号を取って名づけられました。
(しばしば日本最初・日本最古の禅寺と言われるがこれは誤りで、栄西が福岡県博多に開いた聖福寺が最初の禅寺)
中国の百丈山を模して伽藍が整備され、京都五山の第3位として栄えますが、室町幕府の衰退や応仁の乱など戦乱により一時荒廃。
その後1586年(天正14年)頃に、戦国大名の毛利氏に仕えた僧・安国寺恵瓊により再興がはじまり、江戸時代には徳川幕府の保護の下で堂塔が再建されています。
東山の観光名所として有名な豊臣秀吉の正室・ねねが晩年を過ごした「高台寺」や、東山のシンボル的存在である五重塔「八坂の塔」のある法観寺はともに建仁寺の末寺。
また山内の塔頭寺院としては、半夏生の名所として有名で、桃山時代の池泉回遊式庭園や貴重な古籍、漢籍・朝鮮本などの文化財を多数所蔵する「両足院」などが知られています。
度重なる戦乱をくぐり抜け、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画などの豊富な文化財を所蔵しており、中でも俵屋宗達の描いた国宝「風神雷神図」を所蔵していることで有名です。
その他にも仏殿をも兼ねる法堂の天井に2002年(平成14年)に小泉淳によって描かれた畳108枚分の「大双龍図」や、個性豊かな「方丈庭園」「潮音庭」「◯△囗乃庭」の3つの庭、そして秀吉が主催した「北野大茶湯」にて千利休の弟子により建てられた茶室を移築した「東陽坊」なども見どころです。
また栄西は中国から茶をもたらし、日本に茶の栽培、喫茶の習慣を普及した「茶祖」としても知られていて、毎年4月下旬の開山忌(栄西の生誕の日)にその遺徳を偲んで方丈で開催される「四頭茶会(よつがしらちゃかい)」では、禅宗寺院の茶礼の古態を今に伝える四頭式と呼ばれる伝統の作法で茶会が開かれます。
比叡山で出家の後、南宋に渡って参禅
建仁寺の開山である栄西(えいさい・ようさい 1141-1215)(千光(せんこう)国師)は、日本に臨済宗を伝え臨済宗の祖としても知られています。
1141年(永治元年)、備中国(岡山県)に吉備津神社の権禰宜・賀陽貞遠の子として誕生
1154年(久寿元年)、13歳で比叡山に入山し翌年得度(出家)
1159年(平治元年)、伯耆国大山寺で天台密教を修める
そして1168年(仁安3年)と1187年(文治3年)の2度、南宋に渡航しています。
1度目の渡宋はわずか半年で、初めは密教を学びますが、2度目の渡宋の際には臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅。
1191年(建久2年)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て帰国します。
九州から鎌倉へ
当時の京都では比叡山延暦寺の勢力が強大であったため、禅寺を開くことは困難でした。
そこではじめは福岡・博多に「聖福寺」を建て、九州を中心に布教していました。
しかし栄西の名声が高くなるにつれて比叡山延暦寺からの反発が強まり、朝廷は九条兼実を通じて栄西を京都に召還します。
これに対し1198年(建久9年)、栄西も「興禅護国論」を著し、禅の興隆こそが国家鎮護の基礎であると説いて比叡山と争ったものの、朝廷からは禅の布教を禁じる宣旨が出されてしまいます。
そこで1199年(正治元年)、栄西は鎌倉に移り、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻・北条政子と交流を深めて信頼を得ます。
そして1200年(正治2年)に政子の援助で「寿福寺」が建立されると、その開山として招かれたのでした。
京都への進出と建仁寺の創建
以上のように博多・聖福寺、鎌倉・寿福寺を拠点としたものの、栄西の念願は王城の地・京都への進出であったといい、2年後の1202年(建仁2年)、栄西に帰依していた源頼朝の嫡男で2代将軍・源頼家の庇護の下で再び上洛します。
そして幕府より寺域の寄進を受けると、京都における臨済宗の拠点として建仁寺を建立しました(京都最初の禅寺)。
「建仁」の寺号は当時の元号をとったもので、伽藍は宋国の百丈山を模して造営されたといわれていますが、年号を寺の名にすること自体、延暦寺や仁和寺などわずかな例があるだけであることから、破格の待遇だったことが窺えます。
もっとも創建時は当時の天台・真言の既存宗派の勢力が強大だった京都の情勢に対応し、天台(止観)・真言(密教)・禅の三宗兼学の道場だったといいます。
禅宗専一の道場へ
建仁寺は創建より50年後に寛元・康元年間の火災などで境内が一時荒廃しますが、1258年(正嘉2年)、東福寺の開山として知られる円爾弁円(えんにべんえん)が第10世住職として入寺すると、境内が復興されるとともに禅も盛んになっていきます。
更に1259年(正元元年)に宋国の禅僧で日本初の禅専門道場となった鎌倉・建長寺の開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が第11世住職として入寺してからは、禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ、純粋に禅の道場となりました。
五山第三位
その後室町幕府が開かれ、中国の制度にならった京都五山が制定されると、その第三位として厚い保護を受け、大いに栄えることとなります。
(1341年(興国2・暦応4年)には足利尊氏により五山の第四位、1386年(元中3・至徳3年)には足利義満により五山の第三位)
南北朝時代以後も、義堂周信(ぎどうしゅうしん)、竜山徳見(りゅうざんとくけん)、江西龍派(こうさいりゅうは)などが住持し、五山文学の中心であり続けました。
応仁の乱による荒廃と安国寺恵瓊による復興
しかし応仁の乱(1467-77)や室町幕府の弱体化、1397年(応永4年)と1481年(文明13年)の火災による荒廃、更には1552年(天文21年)の兵乱により堂宇を焼失するなどして、一時期寺勢は衰退します。
その後天正年間(1573-92年)に入ると戦国大名の毛利氏に仕えた僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって復興がはじめられ、安芸・安国寺より方丈、鎌倉より仏殿を移築。
更に江戸時代に入ると徳川幕府の五山派寺院に対する保護と統制の下で堂塔が再建修築され、制度や学問も整備されました。
明治以降
明治に入ると政府の宗教政策等によって臨済宗建仁寺派として分派独立し、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により多くの塔頭の統廃合が行われ、余った土地は政府に上納することとなり、境内が半分近く縮小され現在に至ります。