京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町、京都御所東側の清和院御門にほど近い寺町通沿いの南北に細い境内地に鎮座する神社。
一帯は明治維新に伴い公家たちが東京に移り住むまでは、公家屋敷が建ち並んでいたといい、平安中期の歌人・紀貫之が「古今和歌集」の編纂にあたっていたという屋敷もあったといいます。
また境内西側の京都御所との間の梨木通りは、朝夕に御所に参内する公卿たちの参内道として使われていた道だといいます。
1885年(明治18年)、久邇宮朝彦親王の令旨により、三条家の邸宅跡に幕末から明治維新にかけて皇室の中興に尽力した明治維新の功労者の一人である三條實萬(実万)(さんじょうさねつむ 1802-59)を祀るための社殿を造営し「梨木神社」と命名したのがはじまり。
社号は三条家の邸宅が梨木町にあったことにちなんで名付けられたといいます(現在は染殿町(そめどの))。
そして1915年(大正4年)、大正天皇即位を記念して、同じく維新の功労者の一人である子の三條實美(実美)(さんじょうさねとみ 1837-1891)を合祀し現在に至っています。
三條實萬(実万)は菅原道真公の生まれ変わりであるとして当時の人々から「今天神様」と称せられたほどの才色兼備の人物で、半世紀に渡って3代の天皇に仕え、皇室中興のため早くから「王政復古」を唱え、明治維新の原動力となった人物。
1859年(安政6年)4月に有名な「安政の大獄」によって江戸幕府より謹慎の処分を受け、謹慎先の一条寺村で亡くなり、その意思は子の三條實美(実美)に受け継がれ、明治維新後の1869年(明治2年)には明治天皇から「忠成公」の諡(贈り名)を賜わり、1885年(明治18年)に梨木神社の創建にあたり祭神として祀られています。
一方の三條實美(実美)は父の遺志を継いで尊皇攘夷派の急進派の公家の中心人物として活躍し、「八月十八日の政変」により朝廷を追われて京都を逃れて長州へ逃れた「七卿落ち」などの苦難や危機に遭遇しながらも明治維新の大業を成し遂げ、その後は右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任し、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らとともに明治の元勲と呼ばれた人物の一人です。
1891年(明治24年)に亡くなった際に正一位を贈られ、1915年(大正4年)に大正天皇即位式にあたって父が祀られている梨木神社に第二座の祭神として合祀されました。父子揃って祭神として同一の別格官幣社に合祀されるのは極めて稀な例だといいます。
両祭神は学問・文芸の神様として今でも崇敬を集めており、境内にはその神威にふさわしく江戸後期の国学者で「雨月物語」の著者として知られる上田秋成や、神社南側の鳥居横には日本最初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹の歌碑なども建立されています。
また境内の手水舎にある井戸は「染井(そめい)」といい、四条堀川にあった堀川邸の醒ヶ井(さめがい)・京都御苑の県井(あがたい)と並んで「京都三名水」の一つであり、未だ枯れずに現存しているのはここだけであり、誰でも自由に汲むことができることから、参拝の帰りに汲んで帰る人の姿も多く見られます。
この水を使って染め物をすると綺麗に仕上がることからその名がついたといい、また茶人にも親しまれて、手水舎の隣のお茶室ではほぼ毎月の第3日曜日に「染井会」という茶会も開かれ、染井の水と同じ水源から引いた水でお茶が点てられて振舞われるといいます。
そして境内では山吹や紅葉など、四季折々の草花が楽しめることでも知られていますが、別名「萩の宮」とも呼ばれるように「萩(ハギ)」の名所として知られています。
「萩」といえば秋の七草の一つで「万葉集」の中で最も多く歌に詠まれていることで知られていますが、境内や参道では毎年9月中旬から下旬にかけて約500株の薄いピンクや白色の萩の花を楽しむことができ、また見頃の時期には「萩まつり」も開催され、献華式や弓術披露のほか大蔵流狂言や舞、琴、尺八などの伝統文化を中心とした奉納行事が行われ、境内が雅な空気に包まれます。
この他にも近年は御神木の「桂の木」が葉がハートの形をしていることから「愛の木」と呼ばれ、恋愛成就のパワースポットとして若い女性などを中心に人気を集めています。